2004年(平成16年)の 「月見町の諏方神社」祭礼のホームページです  当時の雰囲気を味わって下さい
このホームページは 2004年(平成16年)の諏方神社祭礼の参加した「月見町の山車」の物語です
亡くなった方もいますし、当時 子供だった子たちも 結婚して その子供たちが 太鼓をたたいています
現在の祭礼とは、変わった点もあると思いますが 「祭りに対する想い」は 引き継がれていると思います

月見町・幸町・御清水のゆかりの方、気軽に 諏方神社境内・大通りの太鼓共演の時など
気軽にお声がけください  そして、気軽に昔を思い出して 参加して下さい  お待ちしています
月見町の山車・太鼓のものがたり
平成12年の祭囃子の練習中、太鼓の皮が破れた。 ガムテープの応急処置でハラハラのお祭り参加となった。
祭礼終了後の反省会で、町内から寄付をつのって太鼓を新調することになった。
その時、問題になったのは 太鼓新調と同時に 古い太鼓の皮を張り替えるか どうかと言うことだった。
現在、祭りの当日は 大きな町内に負けないくらいの100人を越す人で 山車運行をしているが、
私を含めて、山車運行に苦労した時期を知っている人にとっては そこまでするべきか かなり悩んだ。
でも、太鼓新調後 大通り競演では 新旧の大太鼓2台で 親子・兄弟の競演もできるようになり 良かったと思う。
平成13年に新調した太鼓は、尺5寸 他の町内の太鼓に比べると かなり小さいが、
月見町の山車の歴史・成り立ちを考えると、この大きさが 山車につけられる最大の大きさなのである。
月見町の山車は、昭和5年 芸者衆が全盛の頃 芸者衆によって作られ お囃子も 芸者衆によって行われていた。
山車の大きさも、間口270cm 奥行300cm 高さ370cmと小ぶりなので 当然 太鼓も小さいのである。
これは、当時の女子の身長に合わせて作られた 喜多方唯一の「女山車」だからである。
戦後も、芸者衆によって山車の運行は続けられたが、いわゆる芸者衆の花代等の苦労も あったようである。
コースは、月見町独自のコースがあり、昭和電工経由で 街中をご祝儀をもらいながら練り歩いたようである。
私の、うる覚えの記憶でも 芸者衆が三味線を弾き かなり華やかに月見町を出ていく山車を見た覚えがある。
月見町の楽曲といわれる「ちゃちゃめんこ」は、本来 三味線がメインで演奏された楽曲であり、
時代の流れで 芸者衆が姿を消すと同時に 三味線の演奏がなくなり この楽曲本来の持つ味わいが消えてしまった。
長老などに聞くと、今流行の「練り込み」以上に 色気があって華やかな演奏が聴けたらしい。
芸者衆がいなくなり、料理屋が一軒一軒姿を消すにいたって 月見町の山車は冬の時代を迎えることになる。
まず、芸者衆が お囃子を演奏していたので 町内の男子は 演奏ができないのである。
それで、男子が今度 お囃子をすると 太鼓台を引く=動かす人が全然いなくなってしまうのである。
市内の他の町内とちがって、月見町は 花街だったので 元々住んでいる人が 少ない町内なのである。
郡部から、笛吹の人を雇ったりして山車運行を続けた時期もあったが、今度は お金が続かなくなってしまった。
そこで、山車の車輪が壊れたのを機会に 車輪をタイヤに変え 太鼓台を引くときは 録音したテープを
流すという最終兵器まで考え出して、山車(太鼓台)を維持してきたのである。
祭り当番の時などは、諏方神社に詰める人がいないので 歩けない人まで 神社に運んだ程であった。
祭りの準備は、正月に 野師の元締めの辻さんのところへの新年のあいさつに行くところから始まった。
今では考えられない事だが、野師の人たちも祭りの成功の一端を担っていたのである。
その後、順番とはいえ 一つの町内で祭りを仕切る大変さを解消するために祭礼奉祝会が発足した。
祭礼奉祝会発足当時から、本当に 他の町内の奉祝会代表の人たちには 助けられた思い出が たくさんある。
幸町の広田君(5代目会長)との出会いも、祭礼奉祝会での出会いがあったればこそである。
合同で山車を運行するにあたっては、話せば何時間でも話せるほど たくさんの問題にぶつかった思い出もある。
幸町で育った広田君は、山車のある月見町町内会と 幸町町内会の間で すごく苦労したと 思う。
でも、現在の山車運行の姿をみると その時の苦労があったればこそって感じがする。
20日からの合同練習・31日のバーベキュー・花火・そして祭礼当日と 3町内の子供だけでなく
祭りで育った子供達が大人になり 都会から祭りのために帰省してきて 違和感なく演奏している姿を見ると
諏方神社祭礼だけは、参加し続けなければならない 山車は、残さなければならないと 思うのである。
祭礼当日、大きな町内に負けない人数で 祭礼に参加しているので 当時の町内事情を知らない人にとっては
お盆の太鼓台競演になぜ参加しないのか 不思議に思うかも知れないが、山車は 神事のためにあるべきもので 
月見町の山車は、やはり諏方神社祭礼の3回の運行で 完全燃焼して 終わるべきだと 私個人は 思っている。
月見町の山車は 亡くなった人も含めて 祭りを維持してきた 町内の人々の努力で 受け継がれているのである。
現在、月見町の太鼓台の屋根に乗っている「鯱(しゃちほこ)」は 幸町の佐藤さんの手作りである。
月見町の祭りは、花街だった伝統の残りか 昔から 酒飲みに始まって 祭りをして また酒を飲む感じだった。
3日の御旅所でのお払いが終わると、町内の長老たちが神社の中で 夜の山車がでる時間まで 酒を飲むのが常だった。
鯱 制作も、山車が 町内に帰ってきてから、大きな氷に穴をあけて日本酒を回し飲みながらの時の 提案だった。
最後に、修理に出した太鼓の胴には「明治28年6月吉日 会津若松祝町 御太鼓師 秋田屋喜三郎 行年65才」と
書かれているのを 発見した。  もちろん、この大太鼓のいわれを知る町内の人は 誰もいない。
現在の太鼓台は、昭和5年に作られたものであるから それより古い時代の太鼓ということになる。
月見町は、明治17年の町割により遊郭地(当時は「新築」と呼ばれていた)として誕生したと言われているから
この古い大太鼓が、唯一町内に残っていて 町内の人々の生活変遷を眺めながら 継承されてきたのである。
当時 どんな人が、どんな思いで、太鼓を打ち続けてきたのかを考えると 継承することは すごい事だなと思う。 
また今年も 8月2日の夜、北宮諏方神社で ・・・・・ 元気にお会いできること楽しみにしています。
修理後の太鼓 修理前の太鼓 太鼓の内部
太鼓の内部の文字 太鼓の内部の文字 太鼓の内部
大関奉祝会7代目会長が、奉祝会20周年記念誌に寄稿した文章に すばらしいのがあるので 紹介します
(前文略) 祭礼奉祝会記念誌より
私は、奉祝会を通じて諏方神社祭礼に携わり数多くのことを感じ 数多くのことを勉強させていただきました。
その中で間違いなく言えることは、北宮諏方神社の祭礼は 過去も そして未来に至るまで
変えることなく行うということでではないでしょうか。
同じことを繰り返しているとマンネリ化する、それも事実です。
しかし、祭礼はそれを繰り返し行わなければ 祭礼ではないと思います。
8月2日、3日に全ての町内の山車が3回山車を運行して、全ての氏子の町内を回る。
そのことを これから先何十年と続けることができるように協力する事が奉祝会の目的の大きな柱だと思います。
(後文略)
お祭り日程
   祭礼の流れを
大通り 太鼓競演も
お祭りスナップ
   3日夜を、中心に
大通りの太鼓競演の写真
山車ものがたり
   月見町の山車物語
 太鼓の内部も紹介
太鼓台の組立
   太鼓台の組立方法を
写真入りで紹介
祭礼奉祝会
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 祭礼奉祝会を紹介
他の町内の山車
   3日昼に、月見町に
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